村上春樹「品川猿」感想【猿は丁寧な言葉で、愛情をもって核心をついた話をした】『東京奇譚集』より

「品川猿」は、村上春樹『東京奇譚集』におさめられている5つの短編の一つです。久々に読んだらとても面白かったので、あらすじと感想を書いてみたいと思います。

ネタバレあり

あらすじ と 感想、考察

主人公は「安藤みずき」、結婚前は「大沢みずき」だった。

一年ほど前から、思いがけず誰かから名前を尋ねられると自分の名前を思い出せなくなった。思い出せないのは名前だけで、住所、電話番号、パスポートの番号でさえ覚えていた。

このことは、夫には打ち明けていなかった。重大な病気かもと思い病院に行ったが、真剣に取り扱ってもらえなかった。

そんなとき、品川区の広報で区役所の「心の悩み相談室」の記事を目にして、試しに申し込んだ。

カウンセラー、坂木哲子は40代後半の女性、人好きのする微笑ほほえみを浮かべていた。正式なカウンセラーの資格を持ち、経験も豊富で、特別な能力を持っていた。夫は区役所の土木課で課長をしていた。

みずきは最初の面談で、現在の結婚生活や職場のこと、結婚前の家族構成、学校生活などについて尋ねられた。

2回目の面談で「名前に関することで何か覚えていることは?」と聞かれ、中学・高校で寮生活をしていたときの、寮の名札のことを話した。実家は名古屋だったが、母の母校の横浜の私立女子校に6年間在籍した。それは母の希望だった。みずきが高校三年の時、一学年下の「松中優子」からの頼みで、彼女の名札を預かることになった。そしてある事件が起き、みずきは今も彼女の名札を持っていた。

みずきは週に1回坂木に会って話をするようになってから、名前忘れのことがそれほど気にならなくなってきた。しかしカウンセリングを受けていることは夫には黙っていた。

そのようにして2ヶ月が過ぎた。10回目の面談のとき、坂木哲子は、あなたの名前忘れのを原因を見つけたと思う、と言った。そして2枚の名札をみずきの前に差し出した。それは寮の名札で「大沢みずき」「松中優子」と書いてあった。みずきは言葉をなくすほど驚いた。実は、彼女が持っていたはずの2枚の名札は、坂木に名札の話をした後で探した時には、見つからなかったのだ。

それらの名札は盗まれていた。「名札が盗まれたことで、名前を思い出せなくなっていた」と坂木は言って、盗んだ犯人に会わせてあげると言った。

犯人は、猿だった

坂木の夫で、区の土木課の課長の坂木義郎と部下の桜田の二人が、品川区の下水に住んでいた猿を捕まえて、名札を取り返したのだった。

ーーーという、奇想天外なお話ですーーー

その猿は、言葉がしゃべれた。

みずきが猿に会ってからの ”猿、みずき、坂木さん、坂木さん夫、桜田くん” の会話が秀逸です。猿とみずきの会話はかなりシリアスですが、そこに時々入る、桜田くんと坂木さん夫の合いの手(?)が、深刻な会話の緩衝材のような役目を果たしていて、ユーモラス、読んでいて頬が緩みます。

猿は、気が弱そうで人柄(猿柄?)も良さそうです。とても礼儀正しく、丁寧な言葉を使って、核心をついた話をします。そして、猿との会話を通じて、みずきの心の奥底の闇が明らかにされます。


「わたしは名前をとる猿なのです」と猿は言った。

心を惹かれる名前があると手に入れずにはいられない。それは病です。

私は、松中優子さんが在学中に彼女の名札を盗もうとした。しかしそれが果たせないまま松中さんは自ら命を絶ってしまった。彼女が亡くなってもからも名札を探し、みずきさんが持っているのではとひらめき、家に盗みに入った。その時「大沢みずき」の名札にも強く心を惹かれ、その名札も盗まないわけにはいかなかったーーとみずきの名札も盗んだ訳を話した。

『いけないことだとは承知していています。しかし、そこにはプラスの面もないわけではない。名前を盗むと同時に、名前に付帯しているネガティブな要素をも、いくぶんか持ち去ることになるのです。

善きものと同時に、そこにある悪いことも引き受けるのです。り好みはできません。そこにしきものごとが含まれていれば、それをも、全部込みでそっくり引き受けるのです』

みずきが高校三年の十月、松中優子はみずきの部屋を尋ねた。松中は、とても目立つ生徒だった。美人で成績も良く実家も裕福でとても恵まれているように見えた。みずきと松中は学年も違っていたし、特に親しいということはなかった。彼女は前置きもなく「みずきさんは嫉妬の感情を経験したことがありますか?」と聞いた。みずきは「ないと思う」と。松中は「いっぱいあります」と言って「嫉妬の感情」について話した。「そういう心とともに日々を送るのは全く楽ではありません。それは小さな地獄を抱え込んでいるようなものです」と。

そして、数日実家に帰るので名札を預かってほしいと頼んだ。「いないあいだに猿にとられたりしないように」と言った。しかし実家に帰ると言ったのは嘘で、彼女はどこかの森の奥で自殺していた。その後の混乱の中、みずきは名札を返すきっかけを失い、ずーっと彼女の名札を自分のものと一緒に持っていたのだった。

あくまで一つの可能性として、もしあのとき松中優子さんの名前を盗むことに成功していたら、それと一緒にあの人の心に潜む闇のようなものを、いくらか取り去っていたかもしれない。そうすれば、松中さんは、自らの命を絶たずに済んだかもしれないーーと猿は言った。

みずきは「わたしの名前には、どんな悪しきものがあったの?」猿に尋ねた。

猿は「本人の前で語りたくありません。みずきさんが傷つかれるかもしれない」と言ったが、みずきは「かまわないから言ってみて。私は本当のことが知りたいの」と。そこで、猿はみずきに本当のことを語ります。

「あなたのお母さんは、小さい頃から今にいたるまで、あなたのことを愛したことは一度もない。横浜の学校にやったのは、あなたを厄介払いがしたかったから。お父さんは悪い人ではないが、あなたを護ることができなかった。

そんなわけであなたは小さい頃から、誰からもじゅうぶん愛されることがなかった。そのことをあなたもうすうすわかっていたはず。でもそのことをわかるまいとして、その事実を心の奥の小さな暗闇に押し込んで、蓋をして、考えないようにして生きてきた。負の感情を押し殺して生きていた。そういう防衛的な姿勢があなたという人間の一部になってしまっていた。そのせいであなたは、誰かを真剣に無条件で心から愛することができくなってしまった。

あなたは現在のところ、幸福な結婚生活を送っていらっしゃるように見える、しかし、あなたはご主人を深く愛してはおられない。そうですね?」


なんと厳しい話でしょうか?

みずきさんは、とても賢い人だと思う。彼女の行動、カウンセラーの坂木さんへの話の仕方、高校時代の松中優子さんとの会話などから推察できる。感情的なところがなく、いつも落ち着いていて、堅実にこれまで生きてきた人のように見える。人として十分立派ではないか、と思うのです。そういうみずきさんに対して、猿の話は厳しすぎるのではないか?誰にだって、心の底に隠しておきたいこと、それによって防衛的な姿勢になることはあるんじゃないか?と思ったのです。

しかし、これはみずきさん自身が心の奥で望んでいたことなのでしょう。彼女の中にある何かが「重い蓋をとって、その事実と向かい合う時期が来ている」と信号を送っていた。それが、名前忘れの症状として現れ、カウンセラーの坂木さんと出会い、お猿との出会いへと導いて行ったのだろうと思います。

日々移動する腎臓のかたちをした石』の女医が、腎臓石を見つけて、それに揺さぶり続けられたように。

一方、松中さんの闇は「嫉妬という感情」だったのでしょう。それを、みずきさんに話して「猿にとられたりしないように」とみずきさんに名札を預けたのでした。松中さんはみずきさんを信頼できる人だと思い、誰か一人には自分の心のうちを話しておきたかったのではないでしょうか?そして、猿のことを知っていたように思えます。そうだとすると、名前と一緒に闇を取り去られることよりも、名前と一緒に自分の闇も自分で引き受けたかった、ということなのでしょうか?

難しい問題です。でも、もし日常生活で ”自分の名前を思い出せない” ことが起きると想像すると、とても恐ろしいです。自分の根源が揺らぐ気がします。あししきことも含めて自分自身を引き受ける、多分それしかないように思えます。

ともあれ、みずきさんは、最後に名前を取り戻しました。とても傷ついたけれど、お猿が言ったことについて「自分でなんとかやっていけると思います」と坂木さんに言いました。

「品川猿」の猿さん、優しい人だった。みずきさんに愛情を持って厳しい話をしました。

あらためて本当に面白い短編でした。ぜひ一読してみてください。

お読みいただきありがとうございました。

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