夏目漱石『道草』の感想を書きます。
概 要
夏目漱石の自伝的作品
1915年(大正4年)朝日新聞に連載された最後から2番目の作
夏目漱石:1867(慶応3年)- 1916 (大正5年)
時代背景と登場人物
時代背景
1905年(明治38年)ごろ漱石がイギリス留学から帰国して2年目ぐらいの時期。
高等学校と大学で教鞭をとりながら小説に着手した頃で、漱石の年齢が38才頃の出来事がモデルとなっている。
登場人物
◼︎健三(主人公):イギリスから戻り、大学と高校で教鞭をとっている
◼︎細君(御定)
◼︎養父(島田)、養母(御常):健三が子供の時預けられた養父母
*この養父母はのちに離婚し健三は実家に戻ることになる
◼︎姉、姉の夫(比田)
◼︎兄
◼︎義父
あらすじ
一言で要約すると、
【健三が、ほとんどの登場人物からお金を無心される話と、細君と心が通じない夫婦関係の話】と言えるかもしれません。
しかしこれではあまりにも省略しすぎなので、もう少し詳しく書きます。
◎お金の無心をする人たち
健三が遠い所(ロンドン)から帰って来て東京での暮らしが始まったある雨の日「一人の帽子を被らない男と家近くで会った」と言うところから物語は始まります。
その男の佇まいは、ゾクゾクと不吉な予感を感じさせます。健三がその人物に会うことを非常に恐れていた、また忌み嫌っていたという感じがありありです。
その男が、養父の島田です。
やがて島田は健三の家を訪ね始め、徐々にお金の無心を始めます。
これを発端に、姉とその夫の比田、兄などが登場します。姉にもお小遣いの追加をそれとなくねだられます。
島田の出現から、登場人物との関係、細君との心が通じない生活、幼年期に養子に出されて養父母と暮らした家の様子や二人との会話などの回想を交えて話は進みます。
そして、島田と離婚した養母の御常も健三を訪ねてきます。特別な用はなく直接お金の無心はしませんが、健三は幾らかのお金を渡さないわけにはいきません。
その上、細君の実家も社会変動で凋落し、そちらへの援助も必要になります。
◎健三の状況と細君との関係
健三は外国帰りで社会的地位もあるため、周りから裕福と思われていますが、実情は、余裕はなくいつもお金に汲汲としています。
教師という仕事とは別に小説も書き始めていてる健三は、いつも時間が足りません。それらに没頭したいと思いながら、お金の無心に来る人たちや細君とのいざこざに消耗しています。
健三は、利己的で意固地で情の薄い人物と描写されていますが、それら人たちをむげに拒むこともできません。そして体調も悪く胃腸に大きな問題を抱えています。
細君は非常にクールです。健三と細君は二人とも頑固で、会話も中途半端で終わり、思いやりのある言葉をかけることができません。二人ともお互いを心の中で攻めます。また細君はヒステリーで、時々発作を起こします。その発作を健三はとても恐れながら、皮肉にもヒステリーの発作が、二人の難しい関係の緩和剤になっていることが描かれます。
細君は妊娠していて、三人目の女の子が生まれます。
◎物語の終わり
最後は、島田にこれが最後というお金を渡して、昔の証文を受け取ります。
細君は「まあ好かった、これであの人だけは片付いて」と言いますが、
健三は「まだ中々片付きゃしないよ」と云います。
「世の中に片付くものは殆どありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出す様に苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父様の仰ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
細君はこう云いこう云い、幾度か赤い頬に接吻した。
(百二)
で終わります。
感 想
昔この本を読もうとして途中で挫折し、数年置きっぱなしでした。
最初の書き出しの ”健三が雨の日に家の近くである男に会う” 場面の不吉さと、その後に続くモヤモヤと重苦しい物語の進行についていけなかったのかもしれません。場面は、いつも寒く暗いと言う印象です。
今回も印象はそのままなのですが、飽きることなく読んでいけました。
途中で何度も ”漱石はなぜ、この小説を書いたのだろう”と疑問に思いながら、、。
◼︎大きな事件は何も起こらない。
◼︎”人間とは” とか ”人は何のために生きるのか?”と言うような哲学的な問い掛けはない。
◼︎主人公は偏屈で薄情な人のように描かれていて、奥さんもめっちゃクール。
◼︎登場人物は、大悪人はいないが、油断がならなかったり、胡散臭かったり、変なプライドがあったり、あまり聡明とも思えなかったり、、。
◼︎書かれているのは、無心されるお金の心配とその不快さ、幼児期のあまり幸せと思えない日々の回想。
◼︎心が通じない夫婦関係。夫婦とも体調が悪く、その上健三は子供が生まれても可愛いとも思わない。
この小説は一体何なの?と思いました。
でも読み進めていくうちに『これが人が生きていく』ということなのかもしれない、と思ったのです。
健三は、いわゆるインテリで、人との付き合い方が下手で、自分の好きなことだけ(学問や小説)に打ち込みたいと思っているが、次から次へとこの世の雑事に巻き込まれていきます。奥さんとの関係も冷たい。
しかし、この奥さんが結構はっきりと物をいう人で面白いのです。例えば以下の会話は、明治の女の人もこういうこと言うのか、と愉快な気持ちにさえなりました。
「妾、どんな夫でも構いませんわ、ただ自分に好くして呉れさえすれば」
「泥棒でも構わないのかい」
「ええええ、泥棒だろうが詐欺師だろうが何でも好いわ。ただ女房を大事にして呉れれば、それで沢山なのよ。いくら偉い男だって、立派な人間だって、宅で不親切じゃ妾にゃ何もならないんですもの」
実際に細君は言葉通りの女であった。健三もその意見には賛成であった。
(七十七)
この小説を最後まで読み、夏目漱石という日本一といわれる大小説家も、私たちと同じように、お金、人間関係、家族、病気という悩みに翻弄されるということが、なんだかとてもいいというか、人間らしいというか、親しみがわくというか、そんな気がしてきました。そして、それらの悩みは生きている限り片付くことはないんだな、と。
登場人物は別の視点で見れば、決して特別な人たちではありません。養父母は彼ら流の愛情を持って健三を育てたのかもしれない、姉や兄もいわば普通の人たちで、奥さんの実家の凋落もあり得ることです。
奥さんとの関係も決して悪くないのでは、と思えて来ます。似たもの同士というか。
奥さんが3番目の子供を生む場面(八十)があります。
日取りが狂って予定よりに早く、産婆さんが間に合わずに子供が生まれてしまった冬の深夜、健三は狼狽の極みになります。その様子が冷静なタッチで臨場感を持って描かれます。洋燈を灯して見ることに気が引け、手探りで生まれた赤ちゃんを触り、一種異様な感触で「寒天のようなにぷりぷりしたもの」と表現しながら、風邪をひかないようにと脱脂綿を無闇に千切ってその上に載せます。赤ちゃんのことを、異様な感触と一見愛はないように表現しながら、そこに健三の不器用な愛を感じるのです。
人が生きていくということは、大変です。哀しくて愛おしいですね。
そして改めて「健三が遠い所から帰って来て」の冒頭からパラパラとページをめくり、どの部分を拾い読みしても、簡潔で淡々とした文体、何一つ無駄のない表現に驚き感銘を覚えたのです。
まとめ
『道草』面白かったです。感想を書くことで、この小説の面白みを発見することができたような気がします。
これまで、夏目漱石はあまり読んでいなかったのですが、これから初期の作品から読んでみたいと思います。そして『道草』を再度読み返したいです。その時はまた違った感想をもつかもしれません。
お読みいただきありがとうございました。
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